ウォルト・ディズニーとは
1901年12月5日,アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴ出身のアニメーション作家, アニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、声優、実業家、エンターテイナー。
世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキーマウス」をはじめとするキャラクターの生みの親で、 『ディズニーリゾート』の創立者である。 兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは数々の倒産、失敗を繰り返すも、 350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。
生涯
生い立ち
カナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。
イライアスとフローラは息子4人と娘1人を儲けたが、父親のイライアスは子供達に対して愛情に欠けた厳格な態度で接しており、ウォルトとロイが1920年代に成功をおさめても、彼らに対して冷やかな態度は変わらなかった為、ディズニー親子は長年距離を置いて交流はしなかった。 両親は1930年代後半にウォルトやロイが破格の成功をおさめた後に、彼らが両親を呼び寄せロサンゼルスに豪邸をプレゼントするまでは貧しい生活を送っていた。
少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。
青年期
青年期を迎えていたウォルトは地元のマッキンリー高校に通いながら、当時無名であったアカデミー・オブ・ファインアーツ専門学校夜間部のコースで絵を学ぶ生活を送っていた。同時に、カンザスの新聞社で新聞配達のアルバイトを始め、朝4:30に起床して配達に行き、放課後に再度配達をするというハードな働き方をしていた。そのためか、学校では居眠りをしたり、悪い成績をとることがたびたびあった[2]。しかし、父からは職業を絵描きになる事を猛烈に反対されていた。
学校では学級新聞の漫画欄を担当してその才能の片鱗を見せていたが、その内容は愛国主義に沿った内容だった。当時、不安定な国際情勢の中でアメリカでも愛国心が国民の間で高まっていた。
アニメーターへの転身
1920年1月、ウォルトとアイワークスはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。だが、設立早々にウォルトはアイワークスを置いてカンザスフィルム社にアニメーターとして雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中でアニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。社員としての仕事の傍らで、映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭、それまでの切り抜き手法からセルアニメに高い可能性がある事を確信した。
1921年6月28日、独立して個人事務所Laugh-O-Gram Studioを設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく、アブ・アイワークスを初め、ヒュー・ハーマンや、ルドルフ・アイジング、カーマン・マックスウェルなどの数人のアニメーター仲間を呼び寄せた。弱冠20歳のウォルトにとってこのLaugh-O-Gram Studio社は最初の成功となったが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。これはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。
ディズニー社設立
ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリス・コメディ」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオ」(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)を興した。事業の過程でアリス・コメディシリーズのアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集めた。そこには、Laugh-O-Gram Studio時代のスタッフだけでなく、バート・ジレット、フリッツ・フレレングといった新人アニメーターを雇った。ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオ社はアニメ製作会社へと転身した。これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ダウンタウンLAの北側、シルバーレイク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。 少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリス・コメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。1925年、会社の従業員だったリリアン・バウンズ(Lillian Bounds)と結婚し流産を経て実娘のダイアン(Diane)を儲けた後に、養女のシャロン(Sharon)を迎え、忙しい生活を送りつつも、父親に愛されなかった反動もあり(後年、長期の南米旅行中ということで、彼は父親の葬儀にも出席しなかった)二人の娘を溺愛しながら育てた。